奇跡の復活を遂げた南部太ねぎ‼︎

幻の伝統野菜に隠された人々の物語。

収穫の秋。食材豊富な南部地方にとって待ちに待った〝美味しい〟季節の到来だ。

南部地方には、古くから栽培されてきた伝統野菜が数多くあるのをご存知だろうか。

糠塚きゅうり、板橋にんじん、がんくみじか、妙丹柿…。

そして、南部太ねぎもその一つだ。

南部町の「南部太ネギ」は、大正7年に地元の農家、工藤幸五郎さんと留目忠男さんによって栽培がはじまり、昭和30年ごろに研究成果が認められ、農林水産省登録品種となった。

その後、病気や害虫に耐性がある品種への改良や栽培の機械化が進むと、昔ながらの南部太ねぎは姿を消し、生産者も減少。絶滅の瀬戸際へと立たされた。

数十年の時を超え、この南部太ねぎの絶滅を救ったのが地元の名久井農業高校の生徒たち。平成22年、地元農家を訪ね歩き、納屋に保管されていた種を見つけ、栽培し、また種を取りを繰り返して増殖させた。

この取り組みは次の後輩、そのまた次の後輩へと引き継がれていったが、高い壁にぶち当たる。活動を引き継いで、栽培してくれる農家が現れなかったことだ。

南部太ねぎは、品種改良をしていない古い原種のねぎ。病気への耐性も弱く、長雨や強風の影響で、腐りやすかったり、葉が折れやすかったりするため、ひときわ手間がかかる。機械での植え付けや収穫ができないため、全て手作業で行わなければならない。春には土に穴を一個ずつ開けて苗を植え、秋にはスコップを使い優しく掘り起こす。こうした手間を考えると、さすがの農家も現代の大量生産ができるねぎに比べると費用対効果が悪いため、なかなか手が出せなかったのだ。

高校生の想いはつながらないのかー。たくさんのねぎ農家が、南部太ねぎを敬遠する中、高校生たちは一人の若手農家に出会う。

南部町で、ねぎをつくっていた杉澤均和さん(当時32歳)だ。「できるかどうかわかんないけど、やってみるべ」。開口一番、杉澤さんが口にした言葉だ。小さいころからねぎ農家の長男として育ち、ねぎ栽培には人一倍強い想いがあった。そして、何よりも生まれ育った南部町に対する郷土愛が南部太ねぎ栽培に対するモチベーションとなった。

当時を振り返る杉澤さんは、「高校生の強い想いもあったし、うちらが地元の先輩たちがつくった南部太ねぎを大事にしないと、次の世代にもつながらない」と話す。

実際の手植えや掘り取りは大変な労力がともなうが、名久井農業高校や家族の協力で少しずつ栽培のコツをつかみつつある。そして、全国各地から絶滅危機を救った高校生や若い農家を応援する手紙が届く。少しずつ取り組みに対する想いが広がっている証拠だ。

南部太ねぎは間もなく旬を迎え、地面が凍り始める12月中頃まで収穫が続く。ほかのねぎに比べ火を通したときの甘みが強く、くせやえぐみが少ないのが特徴だ。薬味としてはもちろん、天ぷらや肉巻き、ポトフなどさまざまな料理で主役級の働きをする。

身土不二ー。地のものを旬の時期に食べられる幸せ。食彩豊かなこの地域だからこその特権でもある。

 

 

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