Funky Soul bozu ~Illmatic 南無阿弥陀仏~

Funky Soul bozu ~Illmatic 南無阿弥陀仏~

願栄寺

副住職 吉川 了真

 

人の世というものは、常に心の安穏というものを求め、彷徨い、争い、心が憔悴してでも、何かに満たされようとする。これは人間である以上しょうがないことだ。欲は見方によっては生きるために前に進む原動力になるし、欲があるから人は進化していくといっても過言ではない。他利の精神も、ボランティアも、博愛主義も、そこにあるのは何かしらの自分の欲が根幹にある。私も正直に言えば欲を肯定する人間だ。

しかし、最近はその在り方が変わってきてように見える。欲にまみれるとはよく言った話だが、自堕落になるだけでなく、自分の欲求に押しつぶされて自分を見失い、心と体のバランスを崩し、人としての生活すらままならない事例をよく耳にするようになった。自分ならできるという気持ちがSNSの発展や情報過多な時代に加速されて自分は特別、自分はスペシャルと言わんばかりに気付けば自分の認識と変わり果てた自分になっている人たちが増えてきていると思う。

 

そんな時代だからこそ、己の心と体に安らぎや安定をもたらすコンテンツには無自覚に興味を持つようになってきていると思う。そのコンテンツの歴史あるものの一つが所謂『仏教』をはじめとする宗教であるのは周知のことだと思うが、そんな仏教に携わりながら自分の道を行き、自分の生き方を模索する人物がいたとしたら皆さんは御興味をもたれるのではないだろうか?

お坊さんだけど、お坊さんらしくない。けれども正真正銘の安寧に一筋の道を示す僧侶かつファンキーなお坊さん。お寺の門前に掲げた法語が2015年のyahoo心に沁みる言葉として1万人以上のフォローを集め、趣味と仏教の奇跡的なバランスを保ち続け、すぐ隣にいそうなイケてるお坊さん、私の友人で願栄寺副住職である吉川了真氏を紹介したいと思う。まさにIllmatic(最高にイカしてる!!)な坊主のライフスタイルをご覧あれ。

 

Q、先ずは簡単な生い立ちを

吉川氏

4人兄弟の末っ子長男として生を受けました。小学生時代に「将来の夢はサッカー選手」と発表した際、先生に「あなたはお坊さんでしょ」と言われガッカリした記憶があります。小さい頃からサッカーとミニカーが大好きで、中学生になるとファッションに目覚め、ハマりにハマりました。高校では古着など友達とよく買いに行っていて、流行りものから試行錯誤しながらお洒落を楽しんでいました。大学では仏教はもちろん、ファッションに携わる事をしていたことも今の自分にとっては大きな部分です。卒業後は自坊に戻り、僧侶となりました。

Q、八戸について僧侶として思う事

まず、八戸に生まれ育ってきたからこそ、当たり前すぎて八戸の事や良い所など何も見えてないなと。勿論自分もそうなので、観光客や遠方から来られた方に言われて八戸の魅力に気づくこともたくさんあります。

それと同じで自分の事は自分が一番わかってそうでわからない。地方都市であっても他人との繋がりは非常に希薄化していて、袋小路に陥ってしまう方が老若男女問わず増えてきていると感じています。他者がいて初めて出会える自分もありますからね。「縁」ともいいますけど。

例えば、何か相談したくてもできない環境があったり、話を聞いてもらいたいだけなのに顔の見えないSNS等しかなくて塞込んでいる人も増えていると思います。昔の八戸はそうではなかったかなと思うところもあります。因みに自分のお世話になっているお寺以外、足を運ぶことに躊躇している方がいらっしゃると思いますが、ノンボーダーですので誰でも入れますよ。

Q、法語に関して

私が自坊に戻ってから担当をしております。歩きながら読み切れる言葉を中心に考えていていまして、学生さんも立ちどまって写真を撮っていく方もおられます。2015年にyahoo心に沁みる言葉という事で取り上げられて頂き、1万人近くの方に共感のフォローを頂きました。その時の法語が『仲間意識が仲間外れを作り出す』という言葉でした。その時の社会情勢や学校、会社、様々なコミュニティーで複雑化した人間関係に皆さん疲れているような気が致しました。

BUMP OF CHICKENの『ray』という曲の歌詞で『お別れした事は出逢った事とつながっている』という一節を掲示したこともあります。法語は誰かのためというより、自分の為です。自分自身が忘れているから、その言葉を目にした人が共感してくれたら嬉しいです。

今月は『失敗のない人生ほど失敗な人生はない』という言葉を選びました。失敗したくない、面倒くさいのが嫌ならば寝ていればいい。けど、やりがいや達成感、感動の類は一切ないです。それは本当に『生』と言えるのでしょうか?様々な悩みや思い通りにならないことがたくさんある。そこに向かっていくことに生の実感や充実感があるのだと思います。失敗や挫折は嫌なことですが、糧になっていくと考えれば、それが人の成長であり喜びですよね。

Q、お花に関して

正直、花に興味もなかったし、むしろ嫌いでした。花粉もあるし、枯れると臭い。しかし、他のお寺の仏花に感動してそれから意識が180度変わりました。それから独学から学び始め、2012年に新本堂建立されてから、私が立てるようになりました。お花はあくまでわき役です。上手い下手ではないんです。仏さまの世界を美しく顕すためのお手伝いと同時に花は人生の儚さも説いています。故に、自分の個性や感性を恐れずに前に出していこうと思って取り組んでいます。花を通じて多くの事を学ばせていただいたし、多くの出会いもありました。

仕事では八戸中心街近く、朔日町にある花誠さんに大変お世話になっているのですが、プライベートでは長者にお店を構える『milcah(ミルカ)』というお店でお世話になっております。こちらのオーナーの山田氏とはとても良くしてもらっていて、彼もまた、東京の下北沢で店を構え、地方を大きく変えてみたいという気持ちだけで2018年青森県八戸市に移転してきてくれた方です。そちらも御興味あれば是非。お花についてはインスタグラムで色々な方たちと出会いました。SNSの良いところをうまく使えばこんなに素晴らしいことはないと思います。人との縁は形は変われど、人生の宝物です。

Q、個性的な趣味に関して

現代アート等は元々好きでしたが、僧侶になって日本の伝統文化にも興味を示すようになりました。花や漆、器、お茶、日本酒など現代でも伝統を守りつつ現代の色を出す美しさに惹かれます。本物を見たり触れたりすることが今の仕事にも影響される面がたくさんあるし、ポスターやパンフレット、お寺の情報紙制作でも強い影響を受けてます。ファッションは20代の頃は奇抜だったり、ブランド物に寄りかかっていた時期もありましたが、現在は本当に自分の好きな物を身に着けるようになりました。流行ではなく、着心地だったり。本質を見極め拘るというのでしょうか?その分洋服は減りました(笑)。趣味というか好きな物はたくさんあります。DIYとかモノづくりとか。人生は受け止め次第でどうにでも方向転換できます。創意工夫ですよ。

Q、これからの仏教について

自坊は浄土真宗 真宗大谷派と言いまして宗祖は親鸞聖人です。

どれだけ世の中便利になっても、人間の本質は変わらないのと同じく、仏教の教えは変わりません。ただ伝え方は変化していくと思っています。これから法話の中に音楽を取り入れたりしてみたいですね。弾き語りをしながら、音と言葉で飛び込んでいきたいです。SNSの普及により若い方と僧侶の交流の場も増えました。しかし、その分、簡単に答えを握りしめてしまって、わかったつもりで終わってしまうのが気がかりです。もちろん否定はしませんが、直接お寺に来て話を聞く事と、一方的な情報収集とでは残り方というか、心の在り方というか、インパクトがまったく異なります。なので自分しかできないというか、僧侶でしかできないワークショップなんかも考えているんです。本来のお寺の存在意義としてみんなで集まって何かを催すという面があります。そういう所も大事にしていきたいんです。

昨今は忙しすぎて体と心のバランスが崩れやすい時代だと思います。それは他人との比較が起因する根の深い話かもしれません。よく、ありのままに生きると言いますが、自由奔放という意味ではありません。思い通りになるのか、ならないのかは自分自身の都合ですから。

お釈迦様の教えに『中道』という歩み方があります。糸を張りすぎず、緩めすぎもせず、偏らないバランスとることは非常に難しい事でありますが、可能性の一つとして、そう言った心のチューニングできる場こそお寺なのかもしれません。

スタジオジブリの作品『千と千尋の神隠し』の最後に、千尋とカオナシたちが銭婆(湯婆婆の双子の姉)のところに行くために電車に乗ります。その電車の電光掲示板に『中道』と出ます。もしかしたら生きる上で物事決めつけないで安穏なる世界になってほしいという願いが含まれていると思います。

また、南無阿弥陀仏と唱えたら何か変わるかと言ったら何もかわりません。もし変わるのならそれは呪文になってしまいます。南無阿弥陀仏は生きる上で、自己中心的に行動しようとする私たちに「それでいいの?」と阿弥陀仏からの呼びかけでもあります。と同時に、「どんな人生でもあなたを見捨てない」という意味も含まれています。それを信ずる姿勢が合掌し念仏申す姿なのです。

そういう意味合いでは、「他力本願」の本来の意味は他人任せの意味ではなく、阿弥陀さんが私たちを救いたいという願いなのです。

物は溢れて豊かになったけど、漠然とした不安感がある現代において自分とどう向き合うか、見つめなおす場として是非お寺を訪ねて頂きたい。お寺の空間、香りや話などを通じて玉結びになった心の糸をゆっくり解いていける時間も大切だと思います。

Q、伝えたいことについて

お寺って亡くなってからお世話になる暗いイメージがありますけれど本来は生きていくための教えです。あの人大好き、あの人大嫌いとかよく天秤にかけますけれど、それはどこまでも「自分の都合」で振り分けているという事なんて、早々気づかないですよ。自分で自分の心を縛りつけて苦しくしてないですか?と教えてくれるのが仏教。私自身も忘れて苦しむけれど、ふと「あ、そうだ」と帰る軸がある。だから仏教はおもしろい!と思います。

どんなことでも構いません。相談したい、話を聞いて欲しい、心を落ち着けたい、考え事をしたい、是非お寺に足を運んでほしいです。これからの時代、温故知新ではありませんがお寺の本来持つコミュニケーションツールの部分をしっかり後世に残していけたらと思っています!

本日はありがとうございました、また是非いらしてください!!

 

 

…如何だっただろうか?

まず、彼をお坊さんに見えない!!って思うかもしれません(笑)。私も出逢ったときはそうでした。でも、本来寄り添う存在である僧侶の現代版を体現してるのではいまいか?

すごくスタイリッシュで、すごくお洒落で、すごく話のわかるお坊さん。

それが吉川氏だ。心と体のバランスを説きつつも、現代背景に合わせてスタイルを変えていく。今も昔も心の不安と人間は対峙してきた。その一つの対処法にお寺があるのではないだろうか?個人的には中道という言葉にものすごく感銘を受けた。自分なりに解釈するならば、思想やポリシー、ビジネスや趣味に至るまで多様化社会の現代において、自分という軸をしっかりもって、決して無理をしないで、心と体のダメージコントロールをしっかり意識する。こんな大事なこと、今も今まで忘れていました。社会全体が忘れてしまいそうなのかもしれません。

さらに、南無阿弥陀仏という念仏に『どんな人生でもあなたの人生を見捨てない』という阿弥陀仏の想いが込められているとは知らなかった。もうまんまヒーローじゃないですか、無茶苦茶カッコいい。どうしても念仏唱えればどうにかなる魔法の呪文的なニュアンスが自分にはありました。けど自分を、そして阿弥陀仏を信じて意を整える、その姿勢こそ念仏と合掌であるとはなお驚き。もう、ある意味ヒーローのキメ台詞じゃないですか!?かっこよすぎるぜ!阿弥陀仏!!お寺でお話を聞いて、ヒーロー燃えするとは思わなかった(笑)

こんなにFunky SoulをもったIllmaticなお坊さんが八戸にいるという事、皆さんは知っていましたか?いるんです!この八戸に!!

是非とも、足を運んでいただいたり、何ならワークショップの依頼をしてみたりしては如何だろうか?その時は素敵な笑顔で『Illmatic』なお坊さんがあなたを迎えてくれるはずです。南無阿弥陀仏。

 

三代目ジリタキ

 

願栄寺

〒031-0085

青森県八戸市大字十一日町58−1

0178-22-1402

Twitter:@czNnfsdp3XTmU0Y

Instagram:https://www.instagram.com/ganeiji/

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