2019年9月1日のダイハツスタジアム。
晴天のなか、チームスローガン「全緑」に合わせてスタンドは緑に染まる。
屋根がない芝生席で直射日光を浴びながら、サポーターが声を枯らす。
ピッチでは八戸出身の差波優人がデビュー戦を迎えた。
1493人が見守るギラヴァンツ北九州との一戦は、見せ場なく0-3の完敗に終わった。
肩を落として帰路につく人々の年齢層は様々だ。
家族連れや若者だけでなく、50代以上も多い。
「1点目は(守備の)寄せが甘かった」「攻守の切り替えをもっと速く」など、評論家のような感想が聞こえる。
その風景を懐かしく感じた。
2006年、私は埼玉で新聞記者をしていた。
事件が主な担当ではあるものの、若かったので人手が足りない現場によく呼ばれた。
浦和レッズが初のJ1年間王者になった年だ。
町はレッズが勝ち点を重ねるたびに盛り上がり、真っ赤に染まっていった。
優勝が決まった瞬間、満員の埼玉スタジアムは地響きのような歓声で揺れた。
レッズは日本有数の熱狂的サポーターを抱えるチームとして知られる。
若者が中心のイメージが強いが、スタジアムには子供から老人まで幅広い層が訪れる。
試合後は町にユニホームで繰り出し、家族や友人同士で飲みながら試合を語る。
「スタジアムが何よりの楽しみ」と話す高齢者もいた。
古くからサッカーの町だった浦和ではレッズが文化になっていた。
八戸は「プロスポーツ不毛の地」と言われてきた。
夏は短く、冬は氷と雪に閉ざされる。
サッカーだけでなく、ほとんどスポーツ興行は行われなかった。
そんな地域が少しずつ変わり始めている。
もちろん規模はまったく違う。
それでも、あの日のレッズにつながる、胎動のような熱を感じる。
さいたま市民が誇るレッズのように、「オラほのチーム」として、ヴァンラーレが町のシンボルになる日が来るのかもしれない。
実業団チームが母体となった多くのJクラブと異なり、ヴァンラーレ八戸はほとんど何もない状態から始まった。
クラブを立ち上げ、J3昇格まで導いたのは株式会社ヴァンラーレ八戸社長の細越健太郎。
私にとっては八戸高校のクラスメートだ。
高校時代、長身でルックスのいい彼は目を引く存在だった。
サッカー部でも中心だったが、普段は静かで前に出るタイプではなかった。
あまり話すことはなかった。高校2年時に学級委員長を務めた彼がクラス日誌に書いていた文章が印象に残る。
要約すると、「意に沿わず学級委員長になってしまったが、引き受けるとやりがいもあって充実していた。挑戦してよかった」という趣旨だったように記憶している。
高校時代、細越は主にディフェンダーとしてプレーした。
Jリーガーを目指した時期もあったものの、プレー中に膝を負傷。
選手としての将来には見切りをつけた。
東京の大学に進学後は、サークルで楽しみながらプレーし、子どもに指導をしていた。
転機になったのは2005年。
地元で社会福祉法人を運営する父から、そろそろ戻って来ないか、と言われた。
打診を受け、細越の心に、「総合型地域スポーツクラブ」という言葉が引っかかった。
地域振興として、幅広い世代がレベルに合わせてスポーツに触れる機会を提供する目的で、国が設立を推進している組織だ。
いずれ少子高齢化の進む故郷に戻り、スポーツで地域に貢献しようと考えていた細越はオファーを引き受けた。
そして、自らプレーしていたサッカーをテーマにしたスポーツクラブを運営することになった。
帰郷後に事業の母体となるクローバーズ・ネットを設立し、地域事業を始める。
八戸市南郷地区を拠点とし、地域の子どもを対象としたサッカースクールを立ち上げた。
参加者は順調に増えていった。活動が盛り上がるにつれ、子どもたちに目標となる姿を見せよう、という声が周囲からあがった。
翌年、東北社会人リーグ2部に所属していた八戸工業サッカークラブと自身が参加していた南郷FCを統合させ、現在のチームにつながるヴァンラーレ八戸FCが産声をあげた。
ヴァンラーレは、イタリア語で「南」を意味するアウストラーレと「起源」を意味するデリヴァンテを組み合わせた造語で、「ヴァンラーレ八戸」には「チームの起源は八戸と南郷」という意味が込められている。
2006年のJリーグはJ1が18チーム、J2が13チームで行われた。
当時、プロクラブを含む年齢制限のないサッカーチームは全国に7000以上あった。
「Jリーグクラブ」を名乗れるのはそのうち上位31チームだけだ。
ヴァンラーレが所属していた東北社会人リーグ2部は上から数えて5番目のカテゴリーに相当する。
チームの目的は地域の活性化で、スタッフの間でプロ化が話題に上がることはなかった。
細越自身、プロクラブを運営することはまったく考えていなかった。
Jリーグへの参入は、夢のような実現不可能な目標という位置にすらなかった。
プロ選手と試合で対戦した経験もなく、テレビで見るサッカーと自分のプレーする環境は別物だと思っていた。
2008年、そんな考えが一夜にして変わる出来事があった。
その日を境に、「Jリーグ」は現実的な、遠すぎる目標になる。
細越とヴァンラーレはプロ化に向かって走り始めた。
(次回に続く)
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